半袖 が恥ずかしい人は誇らしげなおしゃれさんを小バカにして自信をつけよう!

半袖

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半袖 姿が恥ずかしい、アイドルオタクのりょうすかです。

たとえば冬から夏への移り変わりは誇らしいですが、隠されていた肌が露出され恥ずかしく感じることありませんか?

私は夏も終わるのにいまだにその感覚が残っています。今日は 半袖 で家を出てから、一回家に戻って長袖シャツを着てきました。

 

半袖 に自信がないのは、自分を守るため

掘り下げると中学生のとき。体操服の裾をズボンに入れようものならバカにされましたよね…。

私はバカにされまいとみんなの真似をしていました。長ズボンのきゅっとなったゴムの裾を内側に織り込んだり、えんぴつで縫い目をほつれさせたり。

 

たしかに体操服はダサかったけど、だからと言って着崩しがカッコいいとも思いませんでした。みんなにバカにされたくなくてしているのが大きかったです。

 

自分を守るため”そのような行為”がカッコいいと自分に言い聞かせていました。

私はたぶんその頃の記憶を忘れられず、未だにダサいと言われることを怖がっています。だから半袖半ズボンを着れないのかもしれません。

 

自分の服に自信をもつには

中学生のときを思い出すと、上げパンをバカにしてたのって少しやんちゃな”一部の人達だけ”でした。

“その一部の人達が”ダサいと感じただけで、逆に腰パンを恥ずかしく思う人もいます。当時上げパンをバカにされていた人も、もしかしたら腰パンをダサいと思ってたかもしれません。

 

ここで思ったのが、人は他人を小バカにすることで自分の自信を保っているのではないかということです。

「我々は、あまり大した抵抗を感じないで自分の考え方を変える場合がよくある。ところが、人から誤りを指摘されると、腹を立てて、意地を張る。我々は実にいい加減な動機から、いろいろな信念を持つようになる。だが、その信念を誰かが変えさせようとすると、我々は、がむしゃらに反対する。この場合、我々が重視しているのは、明らかに、信念そのものではなく、危機に瀕した自尊心なのである。「私の」という何でもない言葉が、実は人の世の中では、一番大切な言葉である。この言葉を正しくとらえることが、思慮分別のはじまりだ。「私の」食事、「私の」犬、「私の」家、「私の」父、「私の」国、「私の」神様、下に何がつこうとも、これらの「私の」という言葉には同じ強さの意味がこもっている。我々は、自分のものとなれば、時計であろうと、自動車であろうと、あるいはまた天文、地理、歴史、医学その他の知識であろうと、とにかくそれがけなされれば、等しく腹を立てる。我々は、真実と思い慣れてきたものを、いつまでも信じていたいのだ。その信念を揺るがすようなものが現れれば、憤慨する。そして、何とか口実を見つけ出して、もとの信念にしがみつこうとする。結局、我々のいわゆる論議は、たいていの場合、自分の信念に固執する為の論拠を見出す努力に終始することになる」

ハーバード大学,ジェイムス・ロビンソン教授の「精神の発達過程」の一節は、まさに私の中学時代そのものを表していました。

 

  • 簡単に自分の考えを変える→体操服を崩して着るのがカッコいいと思う
  • その信念を否定されるとがむしゃらに反対する→教師や親への反抗

 

一方でその生徒の教師や親は、体操服の着崩しをカッコわるいと感じています。

 

  • 簡単に自分の考えを変える→制服をきちんと着ないと就職できなかった経験から
  • その信念を否定されるとがむしゃらに反対する→息子や生徒への反抗

 

 

つまりはみんな自分を守るために互いを小バカにして生きています。

それは悪い意味ではなくて自分を守るための防衛本能。

たとえば制服のない国の人からしたら、上げパンや腰パン関係なく、日本の体操服自体をダサいと感じるかもしれません。

 

そう思えたら自分の中に余裕ができて自由が広がります。半袖を嫌がるのも、いつのまにか形成された根拠のない考えなんですね。

 

ようは気の持ちかた次第だって話。

 

 

たとえばファッションの最先端、パリコレだって突き詰めすぎて逆にダサいときありますからね。

パリコレ

参考:パリコレとかファッションショーの奇抜な服って誰が着るんだよ

 

 

なにその肩幅wwwwwwwwwww

どの肩下げてランウェイ歩いてんだよwwwwwwwwwww

 

少し気が楽になります。

半袖 が恥ずかしい人は誇らしげなパリコレを小バカにして自信をつけよう!

 

 

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